松田優作さんの生き様に学ぶ


んにちは。
新垣覚です。

こうやって読んでいただき感謝致します!

若い方にはあまりピンとこないかもしれませんが
松田優作さんという俳優さんの生き様は
私たち個人事業家に関係する話が多いです。

シリアスな演技、コミカルな演技、ハードボイルドな演技
個性豊かな演技・・・・
まるで手品師がどんどんカラーボールを手から出すように
松田優作さんは色んなカラーの演技が出来ました。

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出典・OFFICE SAKU

その結果、日本でアクションスターとしての地位を不動のものにしました。

そしていよいよハリウッドから声がかかります。
遺作となった「ブラック・レイン」です。

しかしその頃はすでに癌が彼の体を蝕んでいました。
享年39歳でした。

その松田優作さんが35歳の頃語った言葉です。

俺はまだ発展途上人なんですよ。
かつて積み上げていったアクションスターとしての
自分が邪魔っ気でね。やたら飾りばっかり沢山つけて。
今は一つ一つ、それを外している作業をしているわけです。

松田優作さんはけっして器用な俳優さんではなかったそうです。
でも溢れる演技への想いやストックなまでに拘りをもっていたそうです。

不器用ならどんどん色んなものを増やしていきそうですが
彼は違いました。捨てて減らしていったんです。
そこに私たち起業家の学ぶ点があります。

俳優は体一つの仕事です。
大切なのは演技という他人になる仕事でも
自分を失わないという相反する状態を松田優作さんは
体感していたのかもしれません。

そして先ほどの言葉につながったのでしょう。

今や伝説化した俳優さんですが
その生き様はまさに失敗の連続です。

松田優作生い立ち

山口県下関市で、日本人の父と韓国人の母との間に非嫡出子として生まれた。
父親は長崎出身の保護司で当時39歳、郷里に妻子を持つ180センチメートル近い大柄な男性だった。
2人の異父兄がおり、 (異母兄弟もいる) 兄弟仲は良かったが、次第に自身の出生の秘密に気付き始め、それが原因で孤独を感じるようになる。

1967年11月、「米国へ行って弁護士になれ」との母親からの厳命により、不本意ながら下関市立第一高等学校 (現: 山口県立下関中等教育学校)を2年で中退し、叔母夫妻を頼って米国籍を得る為に渡米する。カリフォルニア州モントレー郡シーサイド市(英語版)のシーサイド高校(英語版)に入学。しかしながら、叔母夫妻の離婚訴訟や言葉のギャップなどに悩み、1968年9月に母に無断でシーサイド高校を中退し帰国する。長兄一家が居住する東京都豊島区のアパートに居候し、私立豊南高等学校夜間部普通科の4年生に途中編入。1970年に関東学院大学文学部に入学する。
俳優へ

1971年3月、劇団『文学座』の入所試験を受けるも一次の筆記試験で不合格。同年5月、金子信雄主宰の劇団「新演劇人クラブ・マールイ」に入団。ここで最初の妻美智子と知り合う。

1972年4月、文学座付属演技研究所十二期生となり、文学座同期には阿川泰子、高橋洋子、山西道広、1期後輩に中村雅俊、1期先輩に桃井かおりがいた。
役者に専念するために、6月には大学に退学届を出す。この頃、『突撃! ヒューマン!!』のヒューマン/岩城淳一郎役のオーディションを受けたという[6]。また、1969年 (昭和44年) 頃の無名時代に新宿駅東口のトリスバー「ロック」でバーテンダーをしていたときに、客として来ていたひし美ゆり子、原田大二郎、村野武範らと知り合いになり親交を結んでいる。村野は自身が出演していた『飛び出せ!青春』のプロデューサーである岡田晋吉が新人俳優を探していることを聞き、松田を推薦した。これがきっかけで、1973年、刑事ドラマ『太陽にほえろ!』にジーパン刑事としてレギュラー出演、その活躍・殉職シーンが話題となる。また、志垣太郎主演の東宝『狼の紋章』にて映画初出演を果たした。

出典:wikipedia

悩みの中に希望を見出し俳優として新しい自分に挑戦する事に
命をかけたスゴイ人生だと思います。

自分の仕事に人生をそこまでかけらるか?
と問われれば私は自信がありません。

だからこそ松田優作さんの生き様は光を放ち続け私たちを魅了するんでしょうね。

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